昭和52年07月29日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 信心に連れはいらぬと。この事は信心は一途でなからなければならない、と言う意味で頂いても良いと思うですね。信心は一途のもの信心一途という事。そこには例えば連れがあるからないからという様な事やら、全然問題でなくなって来るでしょう。あんたが参るなら参ろうばってん、あんたが参らんなら、私も参るめと言う様な事もないじゃないですよね。だからそういう事も、ここには含まれておると思いますけれども。本当は私は一途な信心をせよと言う事だと思うんです。
 とりわけ信心はこの一途さというものがなからなければ、信心の本当の言うならば妙味というか、信心の本当の有難さというものは分からないと思うですね。最後に日に日に生きるが信心なりなんです。もう本当に教祖で初めて表現出来なさるお言葉だと思います。日に日にが、いわゆる日に日にいわばもう刻々が信心だと。今月今日只今が信心でなからなければならないと言うのです、同時に日に日に生きるという事は、日に日に新たに生まれてくるという事。
 為にはほんなら過去の一切がね、空しゅうしていく。なくしていく言うなら、日に日に死んで行くという事にも繋がるです。ですからね。昨日の信心は、もう今日の信心ではない。新たな信心が生まれてくる。いわゆる更な信心という人達の場合はね。三代金光様信心が更でございますと仰せられておった。もう日に日に過去の自分というものは空しゅうしてお出でられておるという様な事じゃないでしょうかね。日に日にまぁどちらに頂いても、大変厳しい信心ですけれども。
 ここの所が頂ける。またここの所を願っての信心でなからなければ、信心の妙味はないです。一途になれるという事が素晴らしいのです。特に稽古という事になりますともう一途にならなければ、どうでも良い様な事で本当の事が体得出来る筈はありません。昨日は、竹葉会でしたから、共励殿でおかげを頂きました。丁度竹内先生が司会をしましてから、半分はなかったでしょうね。左側のほうへ座っておる方達は、すっとこう一人ひとり、順々に発表されましたが。
 もう一人でも私はと言う者が、私はもう驚いて終います位に、皆さんが素晴らしい発表をなさいました。もう滅多に参ってきません、あの石井さんですね、あの久留米の兄弟が参ってきます。薫さんとそれから陽子さんと二人で参って来とります。最近はその陽子さんもいわゆる誠之助さんの奥さんも、竹葉会にかたらせて貰って、まぁ月に何回か参るようになりました。それでお話を聞きよってからですね。もう合楽で言う一番先端とでも申しましょうかね。
 今合楽で言われておるその、合楽の言うなら神様と私共との仲に起きてくるその、リズムの話をしました。私はちょっとしたやっぱり驚きでした。それが自分だけではなくて、まぁ高校に行っておる一年生の息子が居ります。ほんなら先日から、おかげを頂いた話をしておりました。先日から九重にキャンプに参りました。もう大祓いを何巻も何巻も御神前で上げて、そしてしよりますから珍しいこっじゃあると思いよりましたら、もう何巻も大祓い上げてから。
 あの今度行くからには自分だけじゃない、みんな一同もおかげ頂かにゃならんから。とにかく僕の心と肉体と神様とのそのリズムが生まれる様なおかげを頂かなければならんからと言ったそうです。それでまぁお母さんもほとほと感心して、そして帰ってからの話だそうです。もう僕は今度ほど心と身体と神様のこの一つのリズムと言うものを実感した事はなかったと言うて帰って話したそうです。もうあちらで大変な夕立に合いましてね。そのキャンプしております所に、何か三四尺の金の棒がこうある。
 なんかあれを立てる時に使う金でしょう。だからその自分所に持っとったその金をね。そこの土地に道路にこう突き立ててね、突き立ててのと落雷とがその一緒じゃったそうです。もう何秒の差だったちいう事です。その金の棒に落雷したと。もう話を聞いとって身の毛のよだつような話じゃけれども。もう本当にまぁ命拾いをしたと言うか、もうその僕が行きがけに一生懸命に神様にお願いをして、神様との何とはなしに交流を感じて、そしてそれが身体の上にも形の上にも。
 こういうおかげが現れる為には、一つのやっぱりリズムに僕が乗っておったからあれをもう何秒か僕が持っとったら、僕に落雷しとったんだともう本当に恐れ入ったと言う様な話を、帰ってお母さんにした話をお母さんが昨日発表しております。昨日林さんが朝の御祈念に参って又一時の夏期信行に参っておられましてから、お礼のお届けがあったんですけれども、少し時間が遅くなったから単車で何時も参ってきます。
 それで少しスピード出して参って来よる後ろから、あの白バイですかね、がそのついて来よるなぁと思うておったら、さぁっと前のほうへ出てきてから止められた。そん時にもう「すみません」と言うてから、そのまぁ白バイを拝んだとこう言うのです。そして調べられてそのまぁ何ですか免許証をこう見る。それで免許証を調べよったら、こりゃあんた免許証が三月までで切れとるじゃないかという事が分かったんだそうです。それでもう自分も迂闊でしたけれども。
 まぁ知らん訳でもなかったけれども、いかにゃいかにゃんで行かなかったんでしょうね。こらあんたちょいと警察まで来てもらわにゃいかんばいと言うて、まぁ交番所へ連れて行かれた。もうこれから私は先に行っとくけんで、あんたはもう免許証なしで乗られんから歩いて押して持ってきなさい。まぁあの炎天の最中にもう汗ぶるぶるになって、まぁ警察までやらせて頂いた。そして色々調べられて書類が出来上がった。
 所がその書類が出来上がってしまったげなが、書類ばこうやって折ってから、ポケットに入れなさるそうですもん。私は今度あんたば捕まえちから一番初めの印象が良かったち。大体あの何所に行きよったつかち。いや実は合楽の金光様にこうして、お参りをさせて頂いておる事。で今夏の修行があってその一時半にはどうでも間に合わにゃならんと思うて、まぁ急いで行きよった事。勿論その免許証がもう切れておると言った様な事やらは、迂闊にしておりましたけれども、本当に済みませんでしたと。
 まぁ色々説明させて頂いたら、こんな事は私は始めてばのちその巡査さんが言いなさった。これだけスピード違反そして免許証は切れとると言ったなら、絶対それは罰金なら罰金という事になるせにゃ出来んとでしょうが。けれども私はあんたの一番初めの印象が素晴らしかったから、こりゃもうない事にしとくからとにかくあの明日にでも早うあちらに免許証の切り替えに行きなさいと言われたと言うおかげを頂いたんです。でそん時に私がです、その瞬間に止められた時に「すみません」と言うて拝んだのはね。
 その実を言うたら先日から息子さんが、ちょっとしたまぁちょっとした事故ですけれども、実際は段々後からになれば成程、まぁようも是で命があったと言う様な事故にあってる訳です。後ろ前からの追突衝突と言う様な大きな事故だったそうです。これも先日お届けがあっておりましたが、本当信心ちゃその有難い。その息子が後で分かれば分かるほどおかげ頂いておるという事が分かった。
 弟息子が来てから前にも事故を起こして、あの何か後遺症が残っておったのが、あの時々出る様な状態が、最近おかげ頂いておったそうですけれども、なるけんまたその今度んとで前の後遺症が残るだろうと。別にその怪我をしておる訳じゃないんです。けれどもあんまりやっぱりそのショックでしょうかね。でそのハンドル持っとる手がすとっと落ちて、身体がグニャグニャとなってしまう様なショックだったそうです。それでそのまま病院に連れて行かれて。
 もう僕は本当に今度は信心の有難いちいう事が分かったち。と言うのは始めお父さんが来た時には、もう真っ青になってお父さんが来たち。所がお母さんがおかげ頂いたなぁち言うちから、もうニコニコしてから入ってきたつには、僕も驚いたと言うてそのまぁ入院しとる息子が言うたち言うんです。矢張り信心はねそれだけ違うんです。男親のほうは信心がありませんから、もうそれこそ真っ青になってそのやって来た。所がお母さんはおかげ頂いたのち言うてから、そのニコニコしてから入って来た。
 本当に信心を頂いておる者の強さというものを、僕はこれほど感じた事はなかったが、弟がそう言うて後遺症が出るかも知れんと言うた時に、僕は反対にこげな素晴らしいおかげを頂いとるとじゃから、もう前の後遺症はこれで良くなると僕は思うと言うたそうです。その辺のねはもうそれこそ昨日の御理解じゃないけれども紙一重です。おかげになるとならんという事は。
 これほどしのおかげを頂いておるのだから、前の病気が出てくるてん。前の病気も良くなると俺は思うと言うて、弟と話しておるのを聞いてから。信心ちゃ有難い大した信心も頂いとる筈はない。合楽に繁々と参ると言う訳でもないのだけれども、時たましか参らんけれども、御理解を頂いておる親の信心が、そのようにしていつの間に子供の信心が育っておっただろうかと思うて、大変有難かったとこう言うのです。その時の事をその止められた時にですね、すみませんと言うて合掌した事はですね。
 あぁいう大きな事故にもなりかねない様な所を、あの位でおかげを頂いておるから、ここで捕まえられて罰金どん納める位の事は、こりゃもう当然神様がおかげを下さったと思うたから、神様すみませんとも有難いともつかん、済みませんが出た訳だという事です。その事を有難いと言うて昨日お届けがあっておりました。昨日稲垣さんのまぁもう本当にもうリズムに乗り通し。まぁこりゃ佐田さんのお話もそうでしたけれども。もうあんた達の場合は信心が有難いとか、勿体ないとかと言う。
 もういっちょ愉快で愉快でたまらんという感じだねと言うて、聞かせて頂いた事でした。先日から長女の裕美子さんが、マルショウで通うて来ます。高校入学してすぐマルショウへ入って、もう四年になるでしょう。始めの間は四十名の生徒の中に三十五番じゃった。こりゃあんた尻からの方が早かじゃんのと言うごたった。所があのマルショウに入らせて頂いて、年々十番ずつ上がっていった。そして今度は前から今度は前から四番になったと言う、その発表をしておられましたが。
 それはどう言う所にそういうおかげになって来るかという事は後で、まぁ研修した事でしたけれどね。もうあんたちった勉強せんでん良かのと。マルショウ、マルショウと言うてから合楽ばっかり行くが、それで大丈夫のという様なものが、さらさらなかったという事です。成績とか良いとか悪いとか、いや合楽に通うたら成績が落ちる。そんな事はもう全然問題じゃなかっとる訳です。口には言わんでも心でこの人は大丈夫だろうか、合楽合楽と言うて勉強もせんがと言う不安がなかった。
 いや合楽に行っての事であるから、おかげにならん筈はない。そら学業が良くなるとか悪うなるとかいう事じゃないです。問題はその子供の本当の幸せという事だけが焦点に願われておった。学校に行くなら成績が良うならにゃ出来ん。大学にいかにゃんとにこげな成績でどうするるのと言う様なものでは、さらさらなかったという事。大学の受験が出来んなら出来ん所がおかげ。神様へ向こうていっての事だからと言う母親の信心。それにほんなら娘もやっぱ同じ事です。
 とにかく色んなクラブ活動があっておるでしょうけれども、両方がある時には、合楽神様のほうを先にとるという生き方で、まぁ四年間ですかね。続けてきたら年々歳々成績が十番ずつも上がっていって、今度はもう前のほうから何番と言う様なおかげを頂いておりますというお話でした。合楽通いするから勉強が出来んから、成績が悪うなると言った様な事は、如何にその受け方頂き方が何所にか間違いがあるという事を知らなければいけないという事です。眼目が違う焦点が違う。
 私は信心に連れは要らぬと言う所を、今日は信心は一途でなからなければいけないという風に聞いて頂いたんです。皆さん今聞いて頂いたお話、例話は皆んなその信心に言うならば一途であるという事です。信心に一途であればです、人が参るから参らんから、連れがなからにゃと言った様な事は、言わなくて良いでしょう。ほんならその一途の信心という内容を思うてみるとです。もうそれこそ日に日に生きるが信心であるという事。林さんの場合、稲垣さんの場合、佐田さん達の場合。
 もうリズムに乗り通しに乗っておるという事は、日に日に生きるが信心という信心が出来ておらなければ、そういうリズムは生まれて参りません。それこそ石井さん所の息子じゃないですけれども、肉体と心と神様とが一連のいわば繋がりを感じる信心。そこにはリズムが生まれておる。命拾いをするほどしの素晴らしい間髪を要れず、もう本当に一つ間違うたら命に関わる。何秒の差でおかげを頂いておる。
 一途な信心そしてです、日に日にが、もうそこに例えばこれは佐田さんも稲垣さんもそうでしたけれども。一日のことを話されましたずっと。もうそこにもう乗り通しに乗っておるいうならば素晴らしいタイミングと言うか、もう日に日に刻々が神様のおかげを実感しながら生きる生き方。そういう生き方が日に日に生きるが信心だという事になるのじゃないでしょうか。ほんならそういう信心にはです。何の稽古でも同じですけれどもとりわけ信心には、一途のものがなからなければいけないという事。
 一途でなかったら、子供が合楽合楽と言うて通うと勉強のほうが疎かになって、そげな事で大丈夫のと勉強もせにゃと、こりゃもう一途じゃないんでしょうが。もう二途になっとるです。勉強とこうやって別々になっとる。私達があのまぁこりゃ昔から子供たちの事を家内がもうあんた、ちったどうか言いなさらなきゃもう、勝彦がこの頃悪かっで、もうとても他所から苦情が来る訳ですね、子供の事で。ほうらもう豊美が言う事を聞かん。けども私は何時も勝彦が十三の時から、御結界に座っております。
 ちゃんともう、紋付袴着けてからあの学校から帰って、一時間ずつ奉仕するんです。だから勝彦がね、もう僕はあそこに据わるとは嫌と言うごつなったなら、私が言うけれどもね、あれを続けておる間は、言わんでん良かち私が言うんです。あの時分親教会と色んなトラブルがあった時代でしたけれども。豊美が学校の帰りに久留米でしたから、必ず帰りには親教会によって、参拝して帰ってくるんです。
 だから豊美がねあの、親教会参拝を参らじゃったり参ったりするごつなったなら俺が言うけれども、あれが続いておる間は、言う事は要らんと私が申しておりました。これなんかは、私に一つの一途なものがあるから、それが言えまたそれを信じれる訳なんです。ほんなら、ここの修行生の場合でも、ご信者さんの場合でもそうです。私がどうのこうのと言わんでと言う事は、その人のある所を言うなら。
 この人がここが欠けた時にはと言う様なものを、何時もこう見ていってる訳です。何故ってその一途のそこの所があればね。神様と必ず交流するから心配いらんのです。子供が神様神様と言うておる間は、親も心配はないんだと。一途と言うたらその位な一途のものがあって初めて、日に日に生きるが信心と言った様な、有難いそれこそリズムに乗り通しの生き方が、日々出来ると思うですね。
   どうぞ。